出会いシリーズ2『花売の縁オン(ザ)ライン』公演レビュー【01】

  1. 出会いシリーズ2『花売の縁オン(ザ)ライン』公演レビュー【01】

Columnコラム


高嶋慈(美術・舞台芸術批評)
初出=Web マガジン『artscape』2025年1月21日号artscapeレビュー(DNP大日本印刷株式会社・発行)


琉球処分、沖縄戦、アメリカの統治を経て、現在も続く基地の負担と性暴力、そして普天間飛行場の辺野古移設工事。アメリカ統治下の沖縄で起こった米兵殺傷事件を軸に、沖縄の近現代史を「日本国家や本土の期待によって既に書かれた物語」としてメタフィクション化し、「沖縄の物語」を語ることの(不)可能性それ自体についての物語であった『ライカムで待っとく』(作:兼島拓也、演出:田中麻衣子、2022年初演)。兼島の書き下ろし新作である『花売の縁オン(ザ)ライン』は、沖縄の伝統芸能「組踊」の演目『花売の縁』を基に再構築した現代演劇。『ライカムで待っとく』で扱われた問題を、1850年代前後の琉球王国をとりまく国際情勢へと歴史的・地理的な射程を広げて展開させた意欲作だ。

原作の『花売の縁』は、親子の別離と再会を描く物語である。首里の下級士族・森川のは、生活が困窮したため、妻と幼い息子を残して出稼ぎに行くが、十数年間、音信不通となる。彼を探す旅に出た妻と子は、猿回しの芸人や薪取りの老人に出会いながら旅を続け、花売りとなっていた森川の子と再会し、喜び合う。

一方、本作の冒頭では、笠を目深にかぶって表情を隠し、白い花を売り歩く森川の子がゆっくりとした足取りで舞台を横切り、一気に幽玄の世界へと引き込む。彼はなぜ「花売り」になったのか、売られる「花」とは何なのか、そして妻子と連絡が途絶えた十数年間、いったい何をしていたのか。原作には書かれていない「空白」を、兼島は、1850年代前後の琉球王国をめぐって江戸幕府、薩摩藩、中国、欧米列強の思惑が交錯する地政学を複雑に絡み合わせ、史実を基に想像力で読み解いていく。夫・父親探しの旅と交互に描かれるのが、森川の子が暮らす山奥の異人館だ。彼はそこで、ヨーロッパから来琉した宣教師を接待するという表向きの任務に就いている。一向に降りない布教の許可に苛立つフランス人宣教師の機嫌を取りながら、村人と接触しないよう監視する日々だ。「外部」と唯一繋がっているのは、館に設置された電信機が受信するモールス信号のみ。

ここから、兼島の想像力は言葉遊びをバネに、琉球/沖縄をめぐって時空を超えて虚実が交錯するキャラクターたちを自在に召喚していく。キリスト教の「伝道」のミッションを、「伝導」と読み替えたイギリス人宣教師は、ジョン・レノンと名乗り、「世界をひとつにつなげる」電信機のケーブル工事に精を出す。ジョンには(オノ・ヨーコではなく)「オノノイモコ」と名乗る恋人がいるが、彼女は実は幕府から派遣された監視役であり、中国の二重スパイでもある。イモコの上司は10個の通信を同時に聞き分けられる伝説的なオペレーター「聖徳太子」であり、イモコ自身、複数のアカウントを使い分けて暗躍する凄腕のスパイだ。ハワイでは「ジョン万次郎」と名乗っていたイモコを追いかけて、元恋人の「ラッセン」がハワイから押しかけてくる。軽快なラップに乗せ、「ジャパンに俺は深く愛された」「ここはジャパンじゃないのかい?」と歌い踊るラッセン。アメリカからハワイを経由して日本/沖縄へ到達し、ポップスター/軍事力として支配する道筋を引き継ぐのが、ペリー提督だ(史実として、ジョン万次郎は1851年に、ペリーは1853年、浦賀に向かう前にそれぞれ来琉している。また、開国後、ペリーから幕府へ電信機が献上された)。「ジョン万次郎」も「ラッセン」も実はペリーの手引き役の部下であり、用済みとなった彼らのアカウントは消滅=退場させられてしまう。

部下のスパイからの情報を得て琉球に立ち寄ったペリーの真の目的は、森川の子が琉球王府の極秘任務で栽培していた「白い花」にあった。背景には、1840年に起きたアヘン戦争がある。インド製のアヘンを中国に輸出して巨額の利益を得ていたイギリスに対し、中国がアヘンの投棄と禁輸措置を取ったために勃発した。中国の属国であった琉球王府は、中国から押し付けられたアヘンの焼却と海中投棄を森川の子に密命する。だが彼は、「塩」と偽って村人に横流しし、「忘れられない味」「苦痛のなくなる薬」として慕われていた。その塩を混ぜた特製スパイスは、宣教師をはじめ、ペリーをも魅了する。森川の子が売り歩いていた「白い花」は、市場価値に目をつけた琉球王府の密命で栽培していたポピーの花だったのだ。 「王府の命令から自由になって、自由の国アメリカへ行こう」と森川の子を勧誘するペリー。電信機で「IPO」の信号を発し、株式公開と買収という強行手段に出たペリーは、帝国資本主義の象徴である。終盤、自家製のスパイスを初めて口にした森川の子は、花売りの自分を探しに来た妻子と再会し、喜び合って踊る。だがそれは、アヘンが見せた儚い夢だ。「自分を迎えに来る」ペリーと妻が一人二役で演じられることで、引き裂かれた状況の悲痛さが強調される。

ものすごい密度の情報量が詰まった本作だが、白神ももこの演出・振付により、猿回しの芸人がパワフルなダンスを披露するなど、観客を飽きさせないエンタメ寄りの工夫が随所になされる。組踊と同様、音楽ユニットjujumoの生演奏と歌がドラマに併走する。また、舞台転換も鮮やかだ。森川の子や宣教師、スパイたちのいる「異人館」の舞台セットが左右に割れると、床に白いグリッドが引かれただけの空間が現われ、妻子の道行きの物語が展開する。白いグリッドだけの何もない空間は、仮想空間の背景を思わせる。そのグリッドの上に出現する「異人館」とは、琉球/沖縄に関わる人物たちが、現実の時空間や虚実を超えて集い合い、ログイン/ログアウトするメタバース空間だったのだ。

ここで、タイトルに付け足された「オン(ザ)ライン」の複数の意味が開示される。それは、劇作家の想像力の謂いである「オンラインの仮想空間」であり、家族との「オフライン」の裏返しであり、ケーブルのライン拡張工事を目論む帝国主義者たちの欲望が象徴する、情報資本主義によるグローバルな支配でもある。さらに、沖縄の歴史/物語の構造自体が、誰かによって書かれ、「決められたストーリーライン」であるという二重のメタ視線でもある。「100年後、この島はアメリカのものになる」と宣言するペリー。終盤、「ジョン・レノン」は森川の子に問いかける。「誰が僕らの言葉を聞いてるんだ?」「どうせ未来では、この言葉も改竄されて修正されて、都合よく解釈される。(…)いや、存在自体が省かれるかもな」。

登場人物たちは既に書かれた物語の中に閉じ込められており、書き換え不可能であることを諦念とともに自覚している。こうしたメタフィクション性は、『ライカムで待っとく』とも通底する。『ライカムで待っとく』では、「アメリカ統治下で起きた米兵殺傷事件についてのノンフィクションを基に、兼島が現代の劇作家として戯曲を書く」という構造が、「事件について書かれた未公開の手記を基に、現代のライターが記事を書く」という劇中構造に重ねられ、巧みな構成で現在と過去がメビウスの帯のようにねじれて繋がり、「書かれるはずだった記事」は「死蔵された手記」と同一化してしまう。「いったい誰がこの物語を読むのか」「この声は誰に届くのか」という切実な問い。本作で兼島は、古典芸能が醸成された当時の社会情勢を汲み取りながら、その背後に「明確には書かれていなかった物語」「語られていなかった声」があるのではと問いかける。

華やかな組踊だが、元々は、支配者であった中国の外交官をもてなすための芸能として始まり、薩摩藩の二重支配を受けた以降は、徳川将軍や琉球国王の代替わりのたびに江戸へ使節団を派遣したことで、歌舞伎や能の影響も受けながら発展したものであり、琉球が置かれた複雑な地政学と切り離せない。アヘンの焼却処分と外国人宣教師の足止め。森川の子が遂行する極秘任務は、中国と薩摩の二重支配という琉球王府の置かれた政治的位置を端的に物語る。欧米列強と事を荒立てないように、かつ開国までの時間稼ぎとして、宣教師を「お前らのとこで止めとけよ」という圧力が幕府からかけられていたのだ。「ラッセン」の登場は突飛に思えるかもしれないが、「楽園の島」という他者化された表象の点で、ハワイと沖縄を架橋する。そして、登場人物たちのいる異人館がバーチャル空間として実体化・・・されることで、現在/現実と「接続」されるのだ。

「古典」という枠組みを使い、拡張しながら「現在」を見る。『ライカムで待っとく』の続編とも言える本作は、より巨視的な視点から「沖縄」について語るという粘り強い抵抗である。

鑑賞日:2024/11/30(土)
舞台写真:2024年11月 那覇文化芸術劇場なはーと小劇場
撮影:仲間勇太

「出会い」シリーズ②
白神ももこ×兼島拓也 『花売の縁オン(ザ)ライン』



日程:11月30日(土)、12月1日(日)
会場:那覇文化芸術劇場なはーと 小劇場

公演詳細こちら
 

最終更新日:2025.01.21

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