『声』の上演が終了した。両日ともにチケットは完売で、多くの人に観てもらえて大変嬉しく思っている。
これまで5回にわたってなはーとのウェブサイト内に掲載された「稽古場日記」だが、上演前のネタバレを回避するために、いたるところに穴の空いたテキストとなっていた。加えて1000字前後という字数の目安もあり、稽古場での様子を詳細に記すことの困難はあった。
じゃあこの番外編でそういう稽古場におけるチームメンバー全員の一挙手一投足を網羅的に記すのかというと、そういうことではない。というか無理。それは稽古に参加した者だけが共有し、感じ味わうことのできる特権である(単に全部書くのが面倒臭いというわけではない。断じてない!)。
上演も含めた今回のクリエーションを振り返り、「参与観察者」としての雑記を今一度まとめておこうと思った次第である。
今作は、なはーとの土屋プロデューサーによって企画された「出会いシリーズ」の第1作目となるものだ。「出会い」とあるように、演出家、俳優、それから戯曲、そして観客が、この企画を通して「出会う」、その契機を生み出すことが目指されている。
京都を拠点に活動する演出家の和田ながらさんと、沖縄で演出家・俳優として活動する新垣七奈さん。この二人を出会わせ、そこにこの二人がまだ取り組んだことのない戯曲を提示し、さて、どうしましょう? と右往左往しながら作品が生成してくることを土屋さんは企んだわけだ。
プロダクションメンバーの初顔合わせを兼ねて、戯曲の本読みを行ったのが今年の3月。その場に立ち会ったメンバーは総じて、作中の女性像を掴みかねているような感じだった。
そこから定期的にミーティングを重ね、戯曲の読み方も更新されていく。ながらさんの「これ、SFだったらどうなるんですかね?」という思いつきのような発言により、100年近く前に発表されたこの作品がグッと現代に近づいてきたような気がした。
そうこうしているうちに9月中旬。稽古がスタートした。雑談が多く交わされる楽しい現場で、できるだけ稽古に戻らずもっとおしゃべりに興じていたいという欲望とのせめぎ合いに引き裂かれつつ、何度も本読みを繰り返す。
七奈さんが声に出して読むことで初めて気づくことが多く、文字に圧縮されたこの戯曲のなかに、あらゆる可能性が潜在していることに私はずっとワクワクしていた。
それは前述したSF的に読めるということもそうだし、著名な作家・芸術家の手による「ありがたい作品」というものではなく、ある意味もっと低俗な読みすら可能な弾力性を持っている、そのことに対するワクワク。そこからクロマキー合成とかゲーム配信とか、そういったモチーフがどんどんつながっていった。
それらのモチーフが連関し、衝突し、合体し、そうやって生成変化を繰り返してブヨブヨになったものを各セクションが独自に吸収し、咀嚼し、舞台が立ち上がっていく。
一切のテキレジを行わず、戯曲の台詞に忠実でありながら、あらかじめ刻まれていた上演の輪郭とはまるで真逆のあり方で劇世界をリアライズさせたこのプロダクションメンバーに、私は誇りと敬意を抱いている。
1930年の発表当時とまるで違うメディア環境にある現在、この作品をどのように上演するべきか。特に、今作の主人公とさえ言ってもよいであろう電話をどのように描くべきか。電話は、いまでは交換手は不要になり、有線は無線になり、小さく薄く軽い手のひらサイズの板状になった。扱いやすく、膨大な機能を詰め込み、利便性に富んでいる。だがそれをそのまま舞台上で使用した場合には、戯曲とのあいだに厳然たる齟齬が発生してしまう。1930年と2023年とを架橋することは不可能になり、その上演は当時と今との決裂を強調するだけのものになってしまうだろう。
その課題は、丹治さんが持ち込んだ3つの石によって解消された。スマートフォンとは正反対の性質をもった石によって、「女」は「あなた」との通話を試みる。それだけではない。原始的なこの物質に、我々人間は歴史的にスピリチュアルな機能を多分に託してきたが、その採用によって、戯曲の中に登場する「交換手」や「混線相手」との通話に限らず、超越した存在との交信を呼び出すことにもつながった。
ながらさんはその演出で、この作品がどんな話かというようなストーリーテリングを行うのではなく、いまここで何が起きているのか、いわば「できごと性」とでも呼ぶべきものを徹底して立体化させようとした。
大きく重い石を扱いあぐねる舞台上の「女」。それはそのまま他者と、そして自分自身とコミュニケートすることの困難を表している。その困難さは彼女のなかに数々の情動を呼び起こし、嘘を誘発し、堕ちていく自分自身にある種の快楽も抱きつつ、破滅へと向かわせる。「あなた」の声や言葉から些細な徴候を鋭敏に察知し、それに過剰に反応してしまう女性。そしてその「体質」を演じることの楽しさを感受する「プレイヤー」としての女性。
この二重性を、ながらさんは要求する。そしてその要求に、七奈さんはその真面目さでもって応えようとしていた。その実直な応答は結果として、「女」が纏う二重性の絡まりの中に、七奈さんの身体と観客席を巻き込んで混線させ、奇妙なグルーブを生み出していたように思う。
『声』という作品を、これまで多くの者(そのほとんどが女性であろう)が「プレイ」し、そして皆そのラストで非業の死を遂げてきた。反復され積み上げられてきた彼女らの無念さ、無力さ、怨念、そのようなものをあの石たちは吸収し、沈殿させてきた。
緑で統一された室内には、任意の風景をいかようにも構成できるが、石だけは石のまま残存する。テクノロジーがどんなに進んだとしても、どんなに煌びやかな背景を投影したとしても、あの部屋に石は残る。
七奈さん演じる「女」は、何度もこの『声』というシミュレーションゲームを「プレイ」し、ある種の適応を果たし、それでいて戯曲の中に強く残る女性への抑圧を突き破ろうとする。だが何度それを「クリア」したとしても、その抑圧自体は決して完全にクリアされない。そしてそのことは、彼女自身がよくわかっている。
あの石が、七奈さん(=「女」)が舞台(=部屋)を去った後で、緑の空間の中で動じることなく残り続けていることに、すごく重要な意義、というか問題提起があるのだと思う。
石は、これまで「プレイ」してきた女性たちとその念を、文字通り重石となってあの部屋の中に留まらせ続けてきた。あの石を取り除くのは、「女」ではなく、「あなた」でもなく、この上演自体でもなく、我々が日々暮らしている社会に突きつけられた課題なのだという、無言の「声」がどこかから聞こえたような気がした。
さて、「稽古場日記」といいながら、甚だ越権したテキストを記してしまった。本番は終わってしまったが、このテキストは残るし、これを読むことで、上演を遡行的に理解したり考えたりという方がひとりでも居てくれたらその役目は果たせたのかなと思う。
この「番外編」も含めて計6回、特に最後は2回分以上の分量になってしまったが、お付き合いいただき誠にありがとうございます。どうかまた、この作品で皆様と再び出会い直せることを願っています。
舞台写真:2023年10月 那覇文化芸術劇場なはーと大スタジオ
撮影:北上奈生子
書き手・兼島拓也
(毎週火曜更新)
□□プロフィール□□
兼島拓也[かねしま・たくや]・・・劇作家。1989年、沖縄市出身。 演劇グループ「チョコ泥棒」および「玉どろぼう」主宰。主に沖縄県内で演劇活動を行い、沖縄の若者言葉を用いたコメディやミステリなどのオリジナル作品を創作している。2022年、『ライカムで待っとく』(KAAT神奈川芸術劇場プロデュース)で、第30回読売演劇大賞優秀作品賞を受賞。同作で第26回鶴屋南北戯曲賞および第67回岸田國士戯曲賞の最終候補となる。今回初めてドラマトゥルクとして参加する。
http://chocodorobo.com/
□□公演概要□□
「出会い」シリーズ①
和田ながら×新垣七奈 ジャン・コクトー『声』
日程:10月21日(土)19:00/22日(日)14:00
会場:那覇文化芸術劇場なはーと 大スタジオ
料金:一般:2,500円 U24(24歳以下):1,500円 障がい者割引20%
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