沖縄戦の語り部として活動した元白梅学徒隊の中山きくさんが伝え続けたのは、『思っているだけでは平和はこない、行動するのよ』ということでした。戦後 80 年、演劇を通して「戦争と平和」に向き合い、TEAM SPOT JUMBLEが新作を発表します!
出演
津波信一(TEAM SPOT JUMBLE)、ナツコ(TEAM SPOT JUMBLE)、真栄城美鈴(フリー)、大嶺佳奈(劇団ビーチロック)
脚本
安和学治(劇艶おとな団)
演出
島袋寛之(TEAM SPOT JUMBLE)
音楽
古謝麻耶子
コメント・プロフィール
【TEAM SPOT JUMBLE主宰・出演】
津波信一/つは・しんいち
■コメント■
今年、戦後80年を迎える日本、そして沖縄。その間も世界では戦争が繰り返 され、平和とはほど遠いニュースが毎日のように目に飛び込んでくる。 今回の舞台の主軸となる中山きくは僕の伯母にあたる。生前伯母は、身内には戦争体験をあまり語らなかったし、平和ボケした甥っ子は怖い話には片耳 を塞いでいる節があった。それが劇的に変化したのは、今から10年前、NHK沖 縄の「きんくる」という番組で伯母の終戦間際の足跡を一緒に歩いた事が大きい。 伯母が体験した八重瀬の手術壕、逃げまどったであろう畑道、多くの友人を 失った糸満の地、自害を決意した山道で理路整然と語る話はあまりに衝撃的で、これまでの自分を恥じるにはじゅうぶんすぎた。伯母の言葉で忘れられないのは、何年経とうが、命を落とした友人やその遺 族に対して「生き残ってしまい申し訳ないという思い」という言葉である。 凄く切なくて苦しくて涙が出そうになった。なぜなら、伯母が生き残ってく れたから、戦後、体の弱かった僕の父も存在したわけだし、僕も生を受けて いるのだから・・・。 今回の舞台で、「伯母の思いを伝える」なんてことはできないし、不可能だ と思う。だけど、生前よく口にしていた「思っているだけで平和は来ない 行動するのよ」と言う言葉を胸に、進んでいこうと思う。 厳しくも優しかった伯母、そして学友の皆さんが天国から微笑んでくれたら・・・嬉しい限りである。
■プロフィール■
1971年、南城市佐敷生まれ。1990年「笑築過激 団」入団。「お笑いポーポー」に出演。独立後 も沖縄県内にて俳優や演出家、ラジオDJなどマルチタレントとして活動する。2006年、TEAM SPOT JUMBLEを旗揚げ。現在主宰を務める。
【演出】
島袋寛之/しまぶくろ・ひろゆき
■コメント■
子どものころ、慰霊の日が近づくと、毎年学校で沖縄戦のことを学びました。当時はその悲惨さばかりが印象に残り、戦争について考えるよりも。避けるようになっていました。 演劇の世界に入り、いくつかの沖縄戦をテーマにした作品に関わるなかで、 「沖縄人(うちなーんちゅ)が沖縄戦に向き合い、伝えていくことの大切さ」に気が付き、自分もやろうと考え始めました。 戦後80年という節目が近づいたとき、中山きくさんの残した「平和に逆行する動きを止めるためには行動しましょう」という言葉に背中を押されました。 そして、座長の津波さんと話し合い、今回の作品に取り組むことを決意しました。 平和は向こうからやってこない、こちらから動いてつくるものだ。きくさん達、語り部の皆さんが繋げてくれた沖縄戦の記憶と平和への願いに、「演劇」という形で、向き合ってみます。この作品が平和について考え、そして行動するきっかけになればと願ってい ます。
■プロフィール■
1980年、沖縄県浦添市出身。TEAM SPOT JUMBLE旗揚げメンバー。主な出演作: 「TEE!TEE!TEE!」、「クテーラン人びと」 「人類館」「9人の迷える沖縄人」近年では演出 としても精力的に作品づくりを行っている。
【
劇団 TEAM SPOT JUMBLE】
三宅裕司率いる劇団スーパー・エキセントリック・シアターが、2004年〜2005年、沖縄マルチパフォーマーオーディシ ョンを開催。合格メンバーで2006年に演劇集団を旗揚げ。『様々な光・注目(スポットライト)が、ごたまぜ(ジャンブル)になり、輝きを増す』という意を込め、造語である“TEAM SPOT JUMBLE”の名がついた。ダンス・アクロバット 等もこなす沖縄の演劇パフォーマンス集団。 演劇だけでなく、映像やメディア出演、教育現場における演劇の手法をつかったワークショップ事業など、活動の幅を 広げている。
◇中山きく…1928年南城市佐敷生まれ。41年県立第二高女に入学、看護隊として沖縄戦に動員された。46年、佐敷初等学校を振り出 しに49歳まで小学校教員。白梅同窓会会長のほか、県婦人連合会常務理事兼事務局長、青春を語る会代表などを歴任した。2007年の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」では実行委員会に参加。13年の「4・28『屈辱の日』沖縄大会」、 15年の「戦後70年止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」などに登壇。男子も含めた21校の元学徒らでつくる「元 全学徒の会」の共同代表も務めた。23年1月、がんのため死去、94歳。
◇白梅学徒隊…那覇市松山にあった沖縄県立第二高等女学校の4年生で編成。46名が動員されて17名がなくなった。※白梅同窓会資料では56名動員、戦没者は22名。
◇沖縄県立第二高等女学校…1905年(明治38年)に那覇市久茂地に私立那覇女子技芸学校として設立され、1923年に那覇市松山に移転、1928年に沖 縄県に移管され沖縄県立第二高等女学校となった。1944年の十・十空襲で校舎が焼失。戦後、学校は再建されず、跡地 一帯は松山公園となっている。
★★なはーとグルっとまーい対象公演★★
※この事業は令和7年2月那覇市議会にて予算が可決することを前提としています。